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サンタアナの風 <後編>

 
 

 窓を全開にして走る。熱風が体を叩き、喉の奥まで熱くなる。地平線まで続く褐色の大地。目ざわりなものは何ひとつなく、人の営みの気配さえない。
 実際、荒々しさも、ここまでくればひとつの芸術だ。蒼穹の下に広がる砂と太陽と砂漠、そして、原始の広がりの中にポツンと孤立した自分−−今、世界にはそれしかない。多少の淋しさや不安はあるが、しかし解放感の方が強い。自由を得て、すべてやり直せそうな気分になる。だから、町を出て原野に踏み入るこの瞬間が、透(とおる)は好きだった。
 モハベの町から東に80マイルほど走ったあたりだった。左手に広がる荒れ地に、レース仕様のオフロード・バイクが一台停まっていて、埃まみれのエンデューロ・ジャケットを着たライダーが透の車に気がついて大きく手を振った。何かトラブルらしい。
 透が車を止めると、ライダーは右足を少し引きずりながら億劫そうに歩いてきた。怪我をしているのか・・・。
「すまんが、何か飲むものを持ってないか?5マイル手前で吹っ飛んで、水を入れたジャグを割っちまったんだ」
 砂埃にまみれた黄粉餅のようなライダーは老人だった。60歳はとうに過ぎているだろう。
「レースか何かですか?」
 アイスボックスのコーラを渡すと、皺だらけの喉を鳴らしてその半分ほどを一気に流し込んでから老ライダーは答えた。
「モハベ砂漠とネバダ砂漠を走る耐久レースでな、6つのチェックポイントを通って 24時間以内にゴールせんと失格になる。スタートしたのが今朝の7時だから、つまり、残りは16時間ってわけだ」
「レーサーですか?」
「儂が、そう見えるか?」
 訊き返されて、透は答えに困った。歩くのも億劫そうな老人がプロのレーサーであるわけがない。
「誰もおらん砂漠を走るのが好きなだけだよ。いい齢をしてやめろと言われるが、こればかりはどうにもな・・・」
「完走すると、賞金か何かもらえるんですか?」
「フィニッシャーと刻まれた、ブリキのバッチが一つもらえる。もらえるものといえば、それだけだ」
 老ライダーは、当たり前のような顔をしている。
「馬鹿馬鹿しいと思うか?あんたも」
 訊かれて、また答えに詰まった。
「恩に着るよ。これで、次のチェックポイントまで何とかもちそうだ。あんたも、気をつけて、いい旅をな」
 飲み干したコーラの缶を透に返し、老ライダーはバイクの方へ戻っていった。
 陽が、西の地平線から立ち上がる岩の山並みにかかろうとしていた。すぐに空は緋色に燃えあがり、そして砂漠は闇に沈むだろう。再び太陽が昇るまでの約12時間、老ライダーは一人で闇の原野を走り続けることになる。
 バイクに跨り、キックアームを乱暴に蹴り下ろしてエンジンをかけた老ライダーが、オレンジ色に染まり始めた茫漠たる広がりの方を見たまま左手を挙げた。コーラの礼と別れの挨拶らしい。
 −−馬鹿馬鹿しいと思うか?あんたも・・・
 その背中が、もう一度訊いているような気がした。
 轟と吼えて、バイクは原野へ分け入った。舞い上がる砂塵が、白茶けた一本の帯となって地平線に向い、野太いエンジン音が遠ざかってゆく。
 サンタアナの風が吹いて砂塵を吹き飛ばすと、静けさが押し寄せてきた。もう、そこには老ライダーもバイクの姿もなかった。
 無人の原野に薄い闇が下りてきた。幻を見たのかもしれないと、透は思った。

終わり