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入り江にて <後編>

 
 

「ラムは海の男の酒だ。キューバの漁師たちはラムと一緒に海に出る。遊びで魚を追いかけるアメリカ人とは訳が違う」
「アメリカ人はラムを飲みませんか?」
「連中はビールを水のように飲む。儂が知る限り、ただ一人の例外を除いてはな・・・」
 老人はラムを少し舐め、それからまた遠い目に戻った。太陽が西の海に沈み、薄い闇が降りてくる。
「奴はアメリカ人だったが、心はキューバ人だった。この国に革命が起こってアメリカとの関係がおかしくなってからも、奴は決してここから離れようとはしなかった」
 一人言に近かった。闇に沈んでゆく水平線を見つめる老人の目は瞬きをしない。
「革命の後でアメリカ人の記者がやって来て、どうしてここにいるんだと奴にしつこく訊いたことがあったんだが、奴は平然としてこう言ったもんだよ。その答を本当に知りたいなら、あんた自身がここに住んでみることだとな」
 老人の口元に笑みが浮いた。
「いつ眠っているのか分からん男だったな。朝は、浜でマラソンしたりボクシングをやったり。昼は海に出て釣り糸を垂れ、夜は、村中が寝静まってからも本を読んだりタイプライターを打ったりしておった。まったく、タフな男だったよ」
「その人の仕事は?」
「作家だよ。奴の書いたものの文学的価値なんぞ儂には分からんが、何しろいい男だった。聞いたことないか?アーネストって」
「アーネスト?」
「そう、アーネスト・ヘミングウェイって男だ」
 気負いも衒(てら)いもなかった。老人は、懐かしい友の名を口にしたにすぎなかった。
「儂が奴の船を走らせていたんだ。奴はアメリカ人で儂はキューバ人だが、儂らは息の合う相棒同士だったよ。ラムをしこたま積み込んで海流に乗り、釣り糸を垂れる。面白かったのは、何も釣れん時の方が奴の機嫌がよかったことだ。何日も海に出て、何も釣れんで喜んどった。奴にとっちゃあ、ラムを飲りながら海を漂うことこそが大切だったんだな。魚を釣ることが目的ではなかったんだよ。魚は漁師が獲るものだと、奴はいつもそう言っとった」
 老人の目が、遠くへ行ってしまった友を捜しているように見えた。康介は、改めて、闇に包まれてゆく入江を見回した。優しい風の中に、村の家のラジオから流れるソンのメロディが微かに聞こえる。塒に帰る海鳥が暗い空を過ぎり、遠くで魚が跳ねた。
「ガルシアは、いつ帰るか分からんぞ」
 老人が康介を見た。
「いいですよ。帰るまで待ちますから」
 康介は、ヘミングウェイの船を操っていたという老人と一緒に、もう少し海を見ていたいと思った。
 老人は無言で、康介の前にラムの瓶を差し出した。

終わり