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聖者との旅 <前編>

 
 

 メキシコ・シティまであと100キロほどの所で、健太(けんた)はヒッチハイクしたトラックから下ろされ、挙句に金まで要求された。あたりに人気はなく、屈強な運転手だったから抵抗もできず、なけなしの現金50ドルの内の10ドルを渡して何とか許してもらった。
 この旅で、健太は散々な目に遭っていた。ごろつきのような警官に袖の下を要求されたり、ストリート・チルドレンに脅されたり、挙句の果てがオアハカの町では荷物を置き引きされてしまった。
 すべて自分の油断のせいとは分かっているが、しかし腹立たしいし、情けない。人の善意をあてにしていた分だけ、それが裏切られると極端な人間不信に陥る。健太は、初めてのメキシコの旅で打ちのめされていた。
 恐くて車を止める気にもならず、ただ力なく道端を歩く健太の脇にその車は止まった。かなりくたびれた小型車で、ヘッドライトの一灯が切れている。
「どうしたのかね?」
 運転席の窓から突き出された顔にギョッとした。目のまわりを、炎の形の銀色の革で縁どった紅いマスクを被っているのだ。
「驚かせてすまない。こんな格好をしているが、私は山賊なんかじゃない」
 棒立ちになった健太にマスクの男が説明する。
「ファレスで試合があって、これからシティへ帰るところだ。方向が同じなら乗せてあげるよ。こんな所を1人で歩いていたら危ない」
「プロレスラーですか?」
「メキシコではルチャドールと言う。ルチャ・リブレ、つまり自由の闘いに命を賭けるヒーローってわけだ」
 マスクの中の目が悪戯っぽく笑った。小肥りの体で、筋肉隆々のヒーローにはとても見えない。
 盗られる物もないし、どうとでもなれという気持ちで健太はマスクマンの車に乗った。
「試合が終わっても、マスクはいつも被っているんですか?」
 健太は、ハンドルを握るマスクマンの横顔を窺う。
「もちろん、普段は被っていないよ。ただ今夜は、会場の出口にファンが沢山いてな。それで、マスクを被ったまま車に乗ってしまったんだ。素顔を見せないのがルチャドールの掟だから」
 くたびれた車はのろのろと走る。試合の後で、自分で車を運転して家に帰るヒーローなんているのだろうか。マスクを被って生真面目に運転するその姿は、異様でもあるしユーモラスでもある。
「リングネームは何ていうんですか?」
「フライ・トルメンタ──暴風神父だ」
「神父なんて、珍しいリングネームですね」
「そうだな。メキシコには三千人以上のルチャドールがいるが、神父なんて名前をつけているのは私1人だ」
「どうして、そんな名前にしたんです?」
「単純なことだよ。私が神父だからだ。私は、カソリックの神父なんだ」
 マスクマンは、前方の闇を見たまま静かに話す。健太は、夢でも見ているような気分になってきた。

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