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蝶の入れ墨 <前編>

 
 

 ペルーの首都、リマの新興地、ミラ・フローレンス地区。ナトリウムランプの街灯に照らされて、石畳の道が淡いオレンジ色に浮かびあがる。建ち並ぶビルと瀟洒な家並みを縫って走り、温泉旅館のような構えの店の前でタクシーは止まった。瓦屋根の上で、「FUJI」のネオン文字が夜空に赤く滲んでいる。
 不思議な店だった。料亭と旅館と公園が一緒くたになったようなつくりで、雑多な人間たちが店の中を動き回っている。入ってすぐがテーブルとソファを置いたロビーで、日本人の女将(おかみ)が座る帳簿の前を過ぎると中庭に出る。瓢箪の形をした池のある中庭を囲んで、5、6人が座れる小部屋が20ほど並び、奥には、畳敷きの大小の宴会場がある。
 中庭と部屋の間の回廊を、化粧の濃い、派手な身なりの女たちが気だるそうに行き来している。中には、部屋の中を覗き込んだり、飲み食いする客に声をかけたりする女もいる。気に入った女がいたら部屋に呼び、意気投合すれば、そのまま身を寄せ合って外に出て行くというシステムらしい。店の中が、孤立した、ひとつの夜の町のようになっているのである。
 伍郎(ごろう)が呼んだ女は、他の女たちと違って甘ったるい匂いがしなかった。柔らかく波打つ鳶(とび)色の髪が肩まで届き、余計な飾りのない黒いノースリーブのワンピースがスリムな体を包んでいる。扇情的な服をつけ、強い匂いで男たちを誘う女たちの中で、その女の清楚さがかえって新鮮だった。
「名前は?」
 スペイン語で訊いた。九カ月間スペイン語圏を航海してきたせいで、簡単な会話ぐらいは身についている。
「マリア・サルミエント。あなたは?」
 大きな黒い瞳が伍郎を覗き込む。
「沢田伍郎」
 伍郎は、噛むように自分の名前を言った。
「ゴロー、ね」
 マリアは艶やかな褐色の肩を少し竦めた。
「猟師なの?」
「違うよ。貨物船の航海士だ」
「早く日本に帰りたい?」
「どうなのかな?」
 曖昧な答え方になった。日本に帰りたいのかどうか自分でも分からない。特に日本に未練はなかった。どちらかというと忘れたいことの方が多い。だから、南米各地を寄港して、1年近くは日本に戻らない船に乗ったのだ。
「奥さん、待っているんでしょ?」
「そんなもの、いないよ」
「本当?」
「本当だ」
「恋人は?」
「そういうのもいないな」
「嘘」
「嘘じゃないって」
 伍郎はビールを飲み干した。夜の女たちの、このテの質問にはうんざりだった。
「日本の船乗りさん、好きよ」
 マリアは話しを変えた。馴れない手つきで伍郎のグラスにビールを注ぐ。相手の気持ちを察するデリカシーはあるらしい。
「日本人のどこがいいんだ?」
 今度は、伍郎の方がマリアの目を覗き込む。
「だって、お金をちゃんと払ってくれるもの。他の国の男たちは、みんなケチだから」
 肉感的な唇の端に意地の悪そうな笑みが浮いた。夜を生きる、したたかな女の顔だった。
「日本人の男は、みんないいのか?」
「ヤクザ以外はね。ヤクザは駄目」
「ヤクザ?」
 意外な日本語を聞いて伍郎は驚いた。
「ヤクザなんかが、ここに来るのか?」
「女を捜しに来るの。甘いこと言って、それで日本に連れていっちゃうの・・・」
 黒い瞳が翳った。それ以上訊いてはいけないような気がして、伍郎は黙った。

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