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道果つる所 <前編>

 
 

 目の前に、太陽を乱反射して銀色に煌めく海が広がっている。鏡の破片を撒き散らしたような冷たい海。しかし、どこにでもある海とは訳が違う。太平洋と大西洋が出会う、南の果ての海だ。
 マゼラン海峡を隔て、南米大陸の南の端よりさらに南に浮かぶ島、フェゴ。「火の鳥」を意味するフェゴ島より南にある陸地はいくつかの小さな島と、荒れ狂うドレーク海峡の彼方の南極大陸だけだ。南米大陸を縦走する道はフェゴ島で海の中に消える。
 大石(おおいし)は、海が見渡せるカフェの、板張りのテラスに一人いた。夏の陽光は肌を灼く紫外線をたっぷり含んでいるが、海からの風は切るように冷たい。砂糖を溶かした熱いマテ茶を啜ると、自然に溜め息のようなものが出た。夢を実現したという達成感と、旅の終わりの虚脱感がない交ぜになった深い溜め息だった。
 一昨日(おととい)、南米大陸最南端の港町、プンタ・アレナスからフェリーに乗ってマゼラン海峡を越え、フェゴ島に上陸した。昨日は島をゆっくり縦走し、南の果ての海に臨むフリーポート、ウシュアイアの町に着いた時はすでに夜だった。
 アメリカのシアトルをスタートし、太平洋に沿ってひたすら南へ3万キロ。バイクで北南米大陸を縦断する、約4カ月間の長い旅が昨日の夜終わった。達成感と虚脱感は、一泊2000円の宿のベッドに倒れ込むとじんわり湧きあがってきた。
 バイクでの長い旅をすることは昔からの夢だった。大石は10代の時からバイクを愛していたが、40代半ばになる今まで、日本以外の土地をバイクで旅したことはなかった。大石は、若い頃からの夢と憧れを押し殺して会社のために24年働いた。そうすることが当たり前と思っていたし、そうしなければ生きてこられなかった。自分には特別な才覚も芸もない。だから、不器用でも誠実に、どん臭くても堅実に仕事をし、家族を養うことが自分の人生だと思ってきた。
 自分が属してきた唯一の世界と言ってもいいその会社が、しかし経営不振に陥っていることは数年前から知っていた。問答無用のリストラが始まり、依願退職を露骨に勧められたのが2年前。何のための24年間だったかと思った。夢や憧れを押し殺し、誰のために、何のために働いてきたのかと・・・。
 会社への愛着と信頼は、自分でも驚くくらい呆気なく消え失せ、働く意欲も失くなった。しばらく悩んだが、結局、大石は退職を決めた。今辞めれば少しまとまった金が貰えるし、どうせ転機が来るのなら早い方がいいという計算もあった。
 45年生きた人生で最大の選択だった。何人かの同僚や友人も励ましてくれたが、細かいことを訊かずに同意してくれた連れ合いの存在が何よりも大きかった。
 生き直す術を考えねばならなくなった時、封印してきた夢が立ち上がってきた。いい機会だと思った。これからの人生を考えるためにも、一度、一人で長い旅をしてみよう−−そんな想いにも、連れ合いは快く同意してくれた。結婚して20年になるが、この時ほど家族に感謝したことはなかった。
 無駄な旅にすまいと、気負いながら3万キロを走った。その旅が、昨夜終わった。 長かったようにも、短かったようにも思える4カ月だった。大石はマテ茶を啜る度に何度も溜め息をついた。

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