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夜と蠍(サソリ) <前編>

 
 

 17年前、初めてのエントリーの時に戸田(とだ)はレースコースから外れて、バイクはガス欠して光も音もない闇の原野に一人置き去りにされた。聞こえるのは、自分の足音と呼吸音だけだった。
 月明かりに砂丘が青白く光ってうねり、夜は思っていたより明るかった。夜が深くなるにつれ、温度が0度近くにまで下がってくる。戸田の灌木を掻き集めて火を熾した。灌木は乾き切っていて、パチパチと弾けてすぐに燃え尽きてしまう。体の前面は温かいが、背中は凍るように冷たい。チョコレートバーが1本と、キャンディーが数箇。食料はそれしかない。残っている水はジャグに三口分ほどだ。
 午後11時を過ぎた頃、唯一の光源だった月が岩山の陰に沈んだ。砂と岩の原野が漆黒の闇に塗り込められ、頭上で何万という星の瞬きが始まった。
 疲れ切っていたが、眠れなかった。腕時計ばかりを見る。さっき見た時から10分も経っていない。時間の経つのが、とてつもなく遅い。このまま明けないのではないかと思うくらいに夜が長い。
 静けさの中に微かな音が聞こえた。ふと見ると、小さな蠍が1匹、冷たい砂の上を歩いて火に近づいてきた。蠍は火の50センチほど手前で止まり、上体を起こして鉗(はさみ)のある前肢を挙げた。蠍は、そのままじっと動かない。冷え切った体を温めているらしい。
 蠍はすぐそばにいたが、戸田は不思議と恐くなかった。原野で懸命に生きようとする生命がいとおしかった。1匹の蠍がそばにいるだけで心強くもあった。戸田はもの言わぬちっぽけな生命に励まされ、未だ経験したことのなかった、長くて暗い夜を凌いだのだった・・・。
 気がつくと、またあの夜のことを思い出していた。すべては、あの夜から始まったのだ。初めて原野の何たるかを思い知らされた、あの夜から。
 世界から光と色が消え、すべてが闇の中に沈んでゆく。戸田はエンジンをかけ、再び走り始めた。左右から迫るサボテンの林を分けて進み、半島最後の難所、壁のように立ちはだかる岩の山並みを上ってゆく。
 あたりはすでに漆黒の闇。空には幾万もの星。
 砂と岩のトレイルを上り詰めると、視界が一気に開けて光の絨毯が眼下に広がった。ゴールの港町、ラ・パスの灯だ。町の灯と、満点の星の光とが混ざり合っている。
 ラ・パスまで、僅か30キロ。そこへ下りてゆけば、温かいシャワーと冷たいビールが、旨い食いものと人の歓迎が待っている。
 戸田はギアーをニュートラルに入れてバイクを止め、後ろを振り返った。
 原野が闇の中に広がっている。無垢で透明な原野、荒々しくて残酷な原野・・・。
 何故、幾度もここに戻って来たのか、未だにうまく説明ができない。しかし、これだけははっきりしている。自分が、またここに戻って来ることだけは。
 戸田はギアーをロウからセカンドに入れ、光の絨毯に向かってガレ場を下っていた。
 戸田とバイクが闇の中に溶け、四サイクルエンジンの野太い排気音が消えると原野に静寂が戻った。戸田に何かを教えた原野は、何万年も前からあり続けてきたように、今もそこにあり続けている。

終わり