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雨の臭いのする砂漠 <後編>

 
 

 「雨が降ると世界が一変する」とワウヒアは言った。水をたっぷり吸った原野は、確かに昨日までとは全く違う世界だった。雨に打たれる度に、砂漠は幾度も生き直すのだろう。そこには、森羅万象を司る神の意志が働いているとパパゴ族は信じている。
 佐和子(さわこ)は、瑞々しい原野の輝きに誘われて1人歩いていた。棘だらけの灌木やサボテンを分けて延びる砂のトレイルを小1時間歩くと小さな広場に出た。突き当たりが黒っぽい岩の壁になっている。大地から垂直に立ち上がる岩山の根っこの岩盤だった。
 岩盤には、大きな裂け目が縦に何本も走っている。最も幅の広い裂け目の入り口は枯れ枝を編んだ柵で囲われていて、吊された首飾りや鳥の羽根が風に揺れている。ここが、昨夜ワウヒアから聞いた、「アァク・ヒヒ・アヌ」という名の聖なる洞窟かもしれない。
 遙か昔、大雨と洪水を鎮めるために4人の子供が天地の神に捧げられたという。子供たちは死んだのではなく、永遠の命を与えられたのだとワウヒアは言った。その証拠に、雨が降った後には、子供たちが捧げられた洞窟の奥から彼らの楽しそうな歌声が今でも聞こえてくると。
 太陽が西に傾き始めていた。サグアロ・サボテンの黒い影が音もなく砂の上に伸びてゆく。
 佐和子は、「大地にジッと立つ者」たちに囲まれていた。棘だらけの腕を四方に伸ばした緑色の巨人たちは、地響きを立てて今にも歩き出しそうだ。静寂の中に、原野の気のようなものが漂っている。脅したり威圧するのではなく、人を温かく包み込んでくるような、大らかで穏やかなエネルギー。
 佐和子は1人だったが、しかし怖くはなかった。むしろ、解放と安らぎを感じていた。それは、不思議な浮遊感のようなものでもあった。
 どれくらいの時間、そこにいただろう。空の端が金色に輝き、すぐに青白い闇が霧のように下りてきた。緑色の巨人たちは、今やそれ自体が黒い影となって佐和子を見下ろしている。
 その時、背中に気配を感じて佐和子は振り向いた。柵に囲われた洞窟が黒い口を開けている。その奥に小さな白い光が見えた。佐和子の体は硬直した。
 錯覚ではなかった。光は確かにそこにあり、そして、水に落としたインクが波紋とともに広がってゆくように静かに拡散してゆく。
 佐和子は金縛りになっていた。自由を奪われた体が宙に浮いているように感じる。
 白い光が広がって洞窟の入り口を覆ったその時、光の奥から微かな声が聞こえてきた。
 子供の声だった。複数の男の子と女の子が、話したり歌ったりしているのだ。意味は分からないが、子供たちが楽しそうにしているのはその声の調子で分かった。
  それがどれくらいの時間だったのか、佐和子には分からない。ほんの一瞬のようにも、かなり長い間のようにも感じられた。気がつくと、光も子供たちの声も掻き消えていた。佐和子は体の自由を取り戻し、地面の上にしっかり立っていた。
 少ししてから、背中のあたりに鳥肌が立った。しかし、それは恐怖のせいではなく、荘厳な何者かと出会った時の戦慄のようなものだった。
 日本に帰ってから、この体験を誰にどう話そうかと考えたが、しかし、すぐにそれは諦めた。どうせ、誰にどう言ったって信用してもらえないだろう。茶化され、鼻で嗤われるのがおちだ。
 この体験は自分の中だけにしまっておいた方がいいわよねと訊くと、緑色の巨人たちは無言で頷いた。すでに暗くなった原野の只中で、佐和子は、「大地にジッと立つ者」たちと共にいた。

終わり