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越境船、南へ <後編>

 
 

 2日目の夜、食堂で唐揚げチキンの定食を食べている時、唐突に昨夜の少年の顔が浮かんだ。密航者のあの少年は、今も暗がりで息を潜めているのだろうか・・・。
 一度思い出すと無性に気になった。北川(きたがわ)は定食をもう1つ頼み、船室で食べるからとウェイターに言って皿ごと食堂から持ち出した。深く考えたわけではなかった。ただ、気がつくとそうしていた。
 駐車フロアには、しかし誰もいなかった。錆とオイルの臭いが充満する暗がりの中に、武骨な車たちが鉄の墓石のように並んでいる。
「連中は、もうそこにはいないぞ!」
 突然声が聞こえて心臓が止まりそうになった。振り向くと、例の副船長が立っていた。定期的に駐車フロアを見回っているらしい。
「彼らは何処に行ったんだ?」
 北川が訊くと副船長は肩を竦めた。
「そんなことは知らないね。どこかに潜り込んでいるんだろうよ。小さな船だが、隠れる場所はいくらでもあるからな」
 副船長は、北川が手にしている定食の皿に視線を移した。
「その飯を彼らにやりたかったのか?」
 北川は黙っていた。
「今日はいいとして、明日はどうする?明後日は?毎日、飯を運んでやるわけにはいかないだろう?」
 副船長の言うとおりだった。自分のやろうとしたことが、急に薄っぺらなものに思えてきた。
「結局、自分で何とかするしかないんだよ。生命力のある人間だけが生き残るんだ。ここは、そういう世界なんだよ。心配するなよ、連中は、あんたが思っているほど柔じゃないから」
 達観した言葉が突き刺さった。

 3日目の朝、北川は前甲板に立っていた。船首のマストで風に泳いでいたタンザニア国旗がザンビア国旗に替えられ、平坦な陸影が数キロ先にまで迫ってきている。左から突き出た岬の先に細長い湾が続き、船は減速して湾の奥の港に向かってゆく。
その時、左舷の方で重いものが水に落ちる音が続けて聞こえた。身を乗り出して湖面を覗き込むと、人が泳いでいた。
 5人の男が、100メートルほど先の、突き出た岬に向かって泳いでいる。4人の大人について水を掻いているのは、あの少年だった。少年の泳ぎはうまくなく、溺れかけているように見えた。
 少年は水を飲みながら泳いでいた。苦しそうだが、しかし必死に生きようとする人間の顔をしていた。穴のように虚ろな目の、幽霊のような顔ではなかった。
 5人のあげる水飛沫が見る間に遠くなってゆく。岬まで、あと50メートル。5人の密航者は、ザンビアの大地に多分辿り着けるだろう。
 −−生きろよ・・・。
 心の中で声をかけていた。少年に声をかけると、自分が思い煩ってきたことがどうでもいいことのように思えてきた。
 長い汽笛が尾を引いて3つ鳴った。ブリッジの方を見上げると、副船長が窓から顔を出した。副船長は笑みを浮かべ、ザンビアの方を黙って指差した。
 北川は、顔を上げて前を見た。湖面を渡る熱風が、むしろ心地よかった。

終わり