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再会の山 <後編>

 
 

 ホースの水で泥を洗い流して顔を洗い、絞ったタオルで首筋の汗を拭いた。山の水は冷たく、体が生き返る。
 縁側に座ると、江梨子(えりこ)が冷たい緑茶を出してくれた。
「いただくよ」
 渇いた喉が、ほろ苦い冷茶を甘く感じた。
「いつからここに居るんだ?」
「3年前から。それまでは、あちこち転々としていて」
「結婚したのか?」
「そう。で、あれが私の息子」
 草むらで遊ぶ男の子の方を江梨子は見た。
「信じられないでしょ?私が母親だなんて」
 江梨子が初めて笑った。そんなことないよと応えたが、本当のところは、こんな場所で江梨子と会ったこと自体が未だに信じられない。
「お婆さんになったでしょ?」
「心配するな。前よりずっといい顔している」
 それは本心だった。失踪した時が25、6歳だったから、もう30歳は過ぎているだろう。人から見られる商売特有の煌めくようなオーラは確かにないが、その替わりに地に足のついた存在感がある。それが江梨子を美しく見せている。江梨子も、自分で自分の人生を選び直したのだ。
 江梨子の事情と私生活についてはそれ以上訊かず、相川(あいかわ)は自分のことを少しだけ話した。
 自分も芸能界から離れたこと、小さなバーを開いたこと、休みの日にはバイクで山を走ること・・・。
 芸能界から身を退(ひ)いた理由については、江梨子の方も詳しく訊いてこなかった。お互い、そのことには触れまいという暗黙の了解のようなものがあった。
「じゃ、そろそろ行くわ」
「御飯、食べてけば?うちの夫(ひと)も、もうすぐ帰ってくるし」
 立ち上がった相川を江梨子が引き止めた。
「いや、今日は失礼するよ。暗くなると危ないし」
 江梨子の連れ合いとは会わない方がいい気がした。こんな場所で地道に暮らしている男だ。かつての女房を知っている人間を歓迎するタイプではないだろう。
「近くに来たら、また寄って」
「そうするよ。みやげ、何持ってこようか?」
「いいわよ、そんなの」
「遠慮するなって。バイクだから、どうせ大した物は持ってこれないんだ」
 少し考え、江梨子は言った。
「じゃあ、東京の、何かおいしいケーキがいいな。こっちには田舎臭いのしかないのよ」
 笑った江梨子は愛らしく、そして美しかった。
「OK。特別うまいやつを持ってくる」
 ぬかるんだトレイルを歩き、林道に出た。振り向くと、雑木林の奥に赤いトタン屋根が見えた。ここでエンジンをかけると江梨子の暮らしを邪魔するような気がして、相川はバイクを押して少し歩いた。
 木洩れ日が、土の道に光の模様をつくっている。山は緑の匂いに満ちていて、静けさの中から江梨子と子供の声が聞こえてくるような気がした。
 相川はバイクに跨ってエンジンをかけ、春の山の、さらに奥に向かって走り始めた。

終わり