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最悪の席 <前編>

 
 

 嫌な予感がした。それは、中野坂上の部屋を出てすぐ現実になった。
 新宿から乗った成田空港行きリムジンバスが事故渋滞のせいで遅れ、搭乗カウンターでチェックインしてから自分の席に辿り着くまで走らされた。機内を埋めた先客たちの視線に責められながら席につくと、巨人の葉巻のような機体は不機嫌そうに咆えて地を蹴り、鋭角に空に向かった。
 悪いことは、まだ続いた。座った席が最悪だった。窓側に並んだ3人席の真ん中。通路際の若い日本人は水平飛行にうつるやいなやラップトップのパソコンを取り出し、テーブルに乗せてキーボードをカチャカチャ叩き始めた。窓際の、安もののワンピースを着た貧相な白人の女は、膝の上に開いた聖書のような本に視線を落として瞬きもしない。神様も電子機器も苦手だ。よりによって、そんな2人に左右を固められるなんて・・・。
 食事の時に、窓際の女はもったいつけてヴェジタリアン用の機内食を注文した。パソコン小僧の方は、コーラをがぶ飲みしながらデザートのクリームケーキを頬張った。しまりのない食べ方で、生クリームが他人のテーブルに飛んでも無関心だ。遠慮と礼儀の回路が断たれているに違いない。
 食事が終わると、機内が暗くなって映画が始まった。両脇の2人は読書灯をつけ、片や
 キーボードを叩き、片や息を詰めて宗教書に病的な視線を落とし続ける。ウィスキーを流し込んで目を閉じるのだが、寝つかれない。煙草を吸いたいが、それもできない。読みかけの、ネルソン・デミルのミステリーを開く気にもならない。ディテールに手を抜かない本を読むのには、それなりに気力と体力がいる。
 無愛想なスチュワーデスを呼んでおかわりを頼んだ。新しいウィスキーが運ばれてくるたびに、汚らわしいものを見るような目で窓際の女がこっちを盗み見する。
「あなた、仏教徒じゃないの?」
 4杯目のウィスキーに口をつけた時、思いあまったように女が訊いてきた。その泥臭い英語を聞いて、女が都市の人間でないことがすぐにわかった。原野に孤立した、キリスト教の原理主義的な宗派なのかもしれない。あるいは、いかれたカルトか・・・。
「俺は仏教徒じゃないけど、どうして?」
 返ってきたその英語があまりにも流暢なので、女の、鳥のような目が戸惑った。自分よりスマートな英語を使う東洋人がいることが信じられないらしい。
「いえね、仏教徒なら、どうしてそんなにたくさん悪魔の水を飲むのかと思って・・・」
 女が、プラスチックのコップの中で揺れる琥珀色の液体を青白い顎で差した。
「俺はどんな宗教とも無縁だけど、でも、酒を飲む仏教徒だっているよ」
 そんなことも知らんのかと言ってやりたかったが、話が長くなるのが面倒でやめた。その替わりにコップを目の高さまで上げ、わざと味わうようにウィスキーを口に含んだ。

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