100枚の絵ハガキ   Next
   
     

地の果ての紅い灯り <前編>

 
 

 恭介(きょうすけ)は自転車を押しながら歩いていた。時々、横殴りの突風が吹いて自転車ごと飛ばされそうになる。1年中風の吹く土地とは聞いていたが、これほど強い風が吹き続けるとは思っていなかった。乾いた平原に根を張る灌木の群生が、まるで分度器で計ったように同じ角度に傾いて風に打たれている。
 南米大陸最南端の港町、プンタアレナスで折り返し、チリからアルゼンチンに入ってすぐにタイヤがパンクした。修理しようとしたがエアーポンプが壊れていて、だから仕方なく自転車を押して歩き始めた。昨日も一昨日も、1日に擦れ違った車は数台。待っているだけではいつ人と出会えるかも分からない、ここはそんな土地なのだ。
 風の大地、パタゴニア。南米大陸の南緯39度以南、コロラド川、あるいはネグロ川以南の広大なくさび形の地域をパタゴニアと呼ぶ。パタゴニアはアンデス山脈によってチリ領とアルゼンチン領に縦に二分され、太平洋側のチリ領パタゴニアは多雨冷涼なフィヨルド地形で、大西洋側のアルゼンチン領パタゴニアには、西からの空っ風ばかりが吹き下ろす平原が地の果てまで広がる。日本の約3倍という面積に生きる人間は僅か100万人ほどだというから、滅多に人と出会わないのも無理はないのだ。
 風に抗(あらが)ってさらに数キロ進むと、道端に止まる大きなトラックが見えてきた。パンクか故障だろうか。トラブルを抱えたトラックやバスが道端に止まっていることは南米では珍しくない。
 トラックから10メートルほど離れた荒れ地に、運転手らしき男がうずくまるようにして座っていた。
「大丈夫ですか?」
 声をかけると運転手が振り向いた。髭の濃い、熊のような体格をしている。
「マリア様に挨拶していたんだ。ここを通る時は、必ずそうするんだよ」
 答えた運転手は、ごつい体に似合わない、つぶらで人なつこい目をしていた。改めて見ると運転手の前に小さな社(やしろ)のようなものがあり、中に、マリアの素朴な石像が置かれていた。
「自転車旅行か?」
 運転手に訊かれた。恭介は、チリの首都、サンチャゴをスタートしてパタゴニアを反時計回りに走り、アルゼンチンの首都、ブエノス・アイレスを目指す旅のプランを説明した。大学を卒業する前に必ず実行しようと、2年前からバイトの金を貯めながら計画していた旅だ。
「今日は、特に風が強いから気をつけろよ。時々、自転車に跨ったまま飛ばされちまう奴がいるからな。この間も、イタリア人のグループが一列になって空を飛んでったよ。まるで、塒(ねぐら)に帰る渡り鳥みたいだったぜ」
 運転手が、真っ青な空を指差して愉快そうに言った。どこまでが嘘か本当か分からない。
「俺は、これからリオ・ガジェイゴスまで行く。よかったら乗っけてってやるぞ」
 渡りに船だった。地図に記された町らしい町、リオ・ガジェイゴスまでは、まだ30キロ近くある。そこまで行けばパンクも治せるだろう。
 運転手は、マリア像にもう一度手を合わせてからトラックに乗り込んだ。恭介は自転車を荷台に乗せ、広い助手席に座った。
「日本て国の話をしてくれよ」
 話し相手を見つけた運転手は嬉しそうだった。トラックは轟と吼え、風に向かって走り始めた。

Next