100枚の絵ハガキ    
   
     

<巨人>の温もり

 
 

 2002年12月5日、キューバの首都、ハバナ。ホテルの部屋に戻った時は、すでに午前2時を回っていた。スーツを脱ぎ捨ててネクタイを投げ、Yシャツとパンツ一枚でベッドに転がった。どっと疲れが出た。自分ではそれほど意識していなかったが、やはり緊張していたのだろう。なにしろ、世紀を跨いで今も現役の権力者であり続けているカストロと会ってきたのだ。しかも、招待された会食は実に5時間以上に及んだ。
 アメリカから僅か145キロ南の海上に浮かぶ、人口1,100万ほどのちっぽけな島国、キューバ。革命から44年が経った今も超大国アメリカに屈することなく、頑固に理想を追求し続ける「巨人」に会いたいという積年の想いがやっと叶ったのだ。対面したカストロは、私が思っていたとおりの、いやそれ以上の魅力を備えた「巨人」だった。
 カストロと会えたことを東京に知らせたいという気持ちはあったが、面倒臭いのでやめた。今は何もする気がしない。電話は朝になってからしよう。
 しばらくベッドに転がっていたが、神経が昂ぶっていて眠くならない。脱力感と興奮がごちゃ混ぜになって神経がざわついている。
 テレビをつけると、MBOチャンネルで『地獄の黙示録完全版』が、ESPNではレアル・マドリッド戦が、MTVではコロンビアのシンガー、チャキーラの歌が、CNNではイラクのニュースが流れていた。毎日のようにテレビに登場するカストロも、さすがに、この時間になるとブラウン管に姿は現さなかった。
 増々目が冴えてきた。窓から外を見ると、海もマレコン通りも闇の中に沈んでいた。今夜は月も出ていない。時々、海に沿った道を走る車のヘッドライトが人魂のように滑ってゆく。
 忘れない内に今晩のことをメモしておこうと思い、シャワーを浴びて1階のロビーバーへ下りた。広いロビーの隅にあるバーだけは24時間営業している。
 丸いカウンターの中に若いスペイン系の女バーテンダーが立ち、カウンターを囲むように配置されたテーブルセットの一つに2人の黒人女が座っていた。時間といい化粧といい服といい、彼女たちの目的は一目瞭然だ。他に客はいないから、彼女たちの視線は当然私に集まる。
 女たちに背を向けてカウンターに座り、ダーク・ラムのオン・ザ・ロックをダブルで注文した。女バーテンダーは無駄口を叩かずに酒をつくる。後ろのテーブルの女たちとは顔見知りなのだろう。でなければ、その類の女を中に入れるわけがない。
 ラムを舐めながら、今晩の、カストロとの会食の顛末を順に追ってノートにメモしてゆく。場面々々のディテールは思い出せるのだが、全体としてどこかリアリティに欠けている。ほんの少し前までの出来事なのに、ずい分昔の出来事のような気もする。さっきまで一緒だったカストロが、急に遠くへ行ってしまったように感じる。
 肩のあたりに人の気配がし、甘ったるいパフュームが匂った。来たな、と思った。テーブルの女の一人が私の肩越しに声をかけてきた。
「煙草、くれない?」
 夜のお姐さんたちの常套句である。私は、キューバでは手に入りにくいマルボロ・ライトを1本、彼女の顔を見ずに黙って渡した。とりつく島がないと感じたのか、女はそれ以上何も言わずにテーブルに戻っていった。バーテンダーは見て見ない振りをしている。
 2杯目のラムを頼んだ時、もう1人の女が席を立って近づいてきた。
「1杯奢ってくれない?」
 こっちの方が蓮っ葉で図々しい。
「駄目」
 やはり顔を見ずに撥ねつけ、メモを続ける。女は肩越しにノートを見、何か言ったが無視する。第一、意味が分からない。
 女は、それでも引かなかった。女は私の顔を脇から露骨に覗き込み、訊いた。
「中国人?」
 無視する。
「韓国人?」
 しつこさに腹が立ち、女の顔を見返して言った。
「日本人だよ」
 睨みつけたつもりだったが、女は意に介さない。女がまた何かを言いかけた時、バーテンダーが短くそれを遮った。しつこいことはするな、とでも言ったのだろうか。化粧の濃い黒人の女は剥き出しの肩を竦め、ふてくされた歩き方でテーブルへ戻っていった。
 私はふと、カストロと会ってきたことを話したら、この女たちはどんな顔をするだろうかと思った。話をもっと聞きたがるのか、端から信用しないのか。恐れ多くなって逃げ出すのか・・・。
 カストロは、76年の人生のすべてをキューバのために、1,100万のキューバ人のために捧げてきた。カストロは聖人でも超人でもないが、無私を貫いてキューバ国民のために生きてきたことだけは確かだ。その国民の中には、外国人の男の懐をあてにしてホテルのバーにたむろするお姐さんたちをも、もちろん含まれている。
 76歳になって、なお現役の権力者。権力の座について44年が経ち、なお腐らない理想主義者・・・。私の掌に、髭面の「巨人」の掌の温もりが残っていた。


このエピソードは、すべて実話です。カストロに会うまでの旅の過程と、「巨人」の実像について書いた本が、新潮社より発売されます。血湧き肉踊る冒険物語です。
タイトルは、『カストロ、銅像なき権力者』。是非、読んでみて下さい。
人間は捨てたものじゃないと思えるはずです。

戸井十月

終わり