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四つの泉 <後編>

 
 

 まだ暗い内に目が覚めた。長いドライブの疲れから9時前に眠ってしまったせいなのか、チョビ髭の親父から聞いた、砂漠の中の泉の話のせいなのかは分からない。しかしともかく、起きた時にはそこへ行くことを佐伯(さえき)は決めていた。
 自然保護区の入り口は思っていたより遠かった。車から下り、草の中を縫って延びる、泉に至る砂混じりのトレイルを歩いている内に東の稜線から陽が昇ってきた。
空が青く抜け、緑の草の原が瑞々しく輝き始める。岩山に囲まれた盆地の、ここにだけ草原が広がっているのは地中に水脈があるからだろう。
 草原の先に、忽然と泉が現れた。楕円形に近く、直径は30メートルほど。草に隠れて見えないが、近くにもいくつかの泉が点在しているらしい。
 朝陽が斜めに差し込み、透明な水がクリスタルのように輝いている。水面は鏡のように穏やかで、水中を泳ぐ小魚たちの背中がよく見える。
 佐伯は水際に腰を下ろし、泉の中に手を入れた。水は思っていたより微温(ぬる)かった。舐めると、仄甘いようなミネラルの味がした。陽差しが強くなるにつれ、泉の色がエメラルドグリーンに変わってゆく。広大な砂漠の只中の泉が、巨大な宝石のように見える。どうして、こんな場所にこんな泉が忽然と現れるのか確かに不思議だ。
 どこかで鳥が鳴き始めた。聞こえる音はそれだけだ。風もないし、泉の水は微動だにしない。何百万年も前からこの風景はあったのだと思うと、軽い目眩のようなものを感じる。地球が生きてきた壮大な時間に較べて、人一人のなんとちっぽけなことか。しかし佐伯は、そういう感覚に包まれることが決して嫌いではなかった。
 その時、人の気配がして思わず身を竦めた。泉の対岸の草を分けて現れたのは、15、6歳の少女だった。少女が、あたりに人がいるかどうかを確かめることもなく、おもむろに脱ぎ始めたので佐伯は慌てて草の中に身を隠した。
 Tシャツとショートパンツを脱いで全裸になった少女の体が、逆光の中でシルエットになっている。まだどこか青臭い、しかし膨よかで充分に女らしい体。少女は長い黒髪を後ろに束ね、褐色の体を垂直に立てたまま泉の中に入っていった。
 まだ膨らみきっていない胸まで水がくると仰向けになり、泉に身を任せるように少女は水に浮いた。
 仰向けに浮いた少女が両手で水を掻くと、その褐色の体から波紋が広がった。キラキラと輝きながら、透明な波紋が佐伯の目の前の水際に届く。
 美しかった。目の前の風景が、一枚の印象派の絵でもあったし、幻のようでもあった。チョビ髭の親父がいった、見られるかもしれない特別なものとは、このことだったのだ。
 少女は、泉の真ん中で仰向けに浮いていた。佐伯は息を殺していた。大地が温められたのか、微かな風が吹いて草の原がざわめいた。

終わり