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一万円札 <後編>

 
 

 学生時代からの、20年来の友が2ヵ月前に死んだ。8年前に脳溢血で倒れ、きついリハビリをやり抜いて一度は社会復帰した男だったが、結局、2度目の脳内出血で逝ってしまった。
 彼も旅の好きな男だった。若い頃はヨーロッパを転々とし、働くようになっても時間をつくってはあちこち出かけていた。8年前に倒れてからは、自由に旅ができなくなったことが悔しいというのが彼の口癖になった。仕事には復帰したが体の麻痺は残っていた。五体が自由な人間には理解できない苛立ちがあったのだろう。
 彼が死ぬ1ヵ月ほど前、北山(きたやま)をアフリカに送り出す飲み会に友人たちが集まった。杖をついた彼も3次会までつき合い、最後は2人でタクシーに乗った。
 深夜の2時を過ぎていた。雨の夜で、街は暗かった。うっすらと暖房のきいたタクシーの中で、酔った2人はとりとめのない話をした。
 「アフリカ、暑いんだろうな」
 「無茶苦茶らしいぜ」
 「水には気をつけろよ」
 「分かってる」
 「しかしまあ、いい齢して、よくバイクでアフリカに行こうなんて思うよな」
 「齢は関係ないだろが」
 「あるよ。普通は、俺たちの齢になったらそんなことせんだろ。グルメの旅か、温泉だろ」
 「普通じゃないんだから仕方ないだろ」
 「それは言えてる。確かにお前は普通じゃないよな」
 そう言う彼の、羨ましそうな顔を今でもよく覚えている。
 北山の家は都内で彼の家は郊外にあった。北山がタクシーから下りようとした時、ちょっと待てと言って彼がジャケットの内ポケットから財布を出した。
 「何の足しにもならんけど、貧者の一灯だ」
 手に一万円札があった。彼の暮らしが決して楽でないことは北山も知っていたから、余計嬉しかった。
 「ありがとう。大事に使わせてもらう」
 北山は一万円札を折り畳み、胸のポケットに収めた。ドアーを閉めるとタクシーは滑り出した。前を見たまま、彼が手を挙げるのが見えた。雨に滲んで遠ざかってゆくテイルランプに、北山も手を挙げた。それが、彼との別れになった。
 北山は一万円札を見つめていた。何の変哲もない札だが、特別な札だ。札の中に友の顔が見える。
 北山は一万円札を丁寧に畳み、ワレットの小銭入れに収めた。
 少し元気になった。何か食べて、ともかく眠ることだ。こんなことぐらいでめげていてどうする、と自分に言い聞かせる。
 その時、唐突に部屋が明るくなった。停電が終わったらしい。
 窓の外から、駅前の路上市場の喧噪が聞こえてくる。遠くで汽笛が鳴ったから、もうすぐ汽車が入ってくるのだろうか。
 北山は、水と食べものを買いに部屋から出た。友と一緒に−−。

終わり