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イタリア人の宿 <後編>

 
 

 「料理は口に合ったかな?」
 エスプレッソを飲みながら一服していると、柄の大きな白人が慣れ慣れしい声をかけてきた。リキュールのボトルとショットグラスを手にしている。とてもおいしかったと答えると白人は嬉しそうに頷き、植村の向かいに座ってグラスにリキュールを注いだ。それがこの宿のオーナー、カルメラ・タルタギリオーネだった。
 「この国に初めて来た時は驚いたよ。貧しいんだが、だからといって欲望にギラついた上昇志向があるわけでもなく、毎日、パンと豆があれば充分というような気質の持ち主が多いんだ。そのくせ、私たちよりずっと人生を楽しんでいる。この国では時間が止まっているんだ。熱帯雨林も夜の星空も素晴らしいし、ここにいると、世間のことも明日の約束も、もうどうでもいいという気分になるんだよ」
 カルメラは、ローマ国際空港の航空管制官だったらしい。稼げるが、身も心も擦り減る毎日だったという。50歳で退職したカルメラはしばらく年金暮らしを送った後、私財を投げ売ってここにエコロッジを建てた。自分の家族はもちろん、コックの家族も一緒にイタリアから移り住んだのだそうだ。
 「私はこの国から沢山のことを学んでいるんだ。ここの人間は、今日できることは明日やればいい、今日は人生を楽しむのだという考えをする。明日というのは、彼らにとっては10年先のことかもしれない。そういう時間の流れの中で生きているんだ。今日やらねばならないことに追われ、楽しむことを先送りしている内に死んでしまう人生なんて悲しいじゃないか。私たちは、知らない内に、そういう時間の流れの中で生かされてきたんだよ」
 リキュールを舐め、細身のシガーをくゆらせながら喋るカルメラは、最後に、これからが本当の人生だと呟いた。
 満腹になり、ワインの酔いも手伝って眠くなった。明日はなるべく早く発って、昼までにはサンホセに着きたい。予定では、今日の内にサンホセへ着くはずだったのだ。
 もう一度料理の味を褒め、席を立とうとした時にカルメラが言った。
 「朝食は10時だから、それまではゆっくり眠るといい。朝食に、何か特別なリクエストはあるかな?」
 「いえ、特には・・・」
 「なら任せてもらおう。茸のオムレツと、うちで焼いたパンは抜群だぞ」
 自慢気に言うカルメラに別れの挨拶をし、外に出た。眼下に黒い熱帯雨林が広がり、あちこちで蛙や守宮(やもり)が鳴いている。熱帯雨林の中で明滅する、針の先のような小さな光は蛍だろうか。涼しい風は緑の匂いがする。見上げると、降ってくるような星が夜空を埋めていた。
 −−朝食を食べてから出発するか。サンホセには、明日中に着けばいいだろう・・・。
 植村はコテージまでぶらぶら歩きながら、ささやかな予定変更を決めた。

終わり