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No.49

約束 <前編>

 
 

 橋口は、道の分岐点の手前でバイクを止めた。西に走ればカリフォルニアに戻り、東に走ればアリゾナに至る。
 エンジンを切ると静寂に包まれた。聞こえるのは、原野を渡る風の音だけだ。あたりには人の気配もない。乾いた原野は、20年前と何も変わらず、静かに、しかし人を圧する威厳をもってそこに広がっている。
 橋口はバイクから下り、ヘルメットをはずして煙草に火をつけた。香ばしい煙が乾いた風に泳ぎ、そして流されてゆく。
 「途中で旅を投げ出さないで」
 ここで分かれたライダーの言葉が風の中に聞こえた。20年も前のことなのに、あの時の彼女の顔と言葉は今でも鮮明に思い出せる。道を旅していればよくある、ほんのささやかな出会いだったが、それは橋口にとって運命的な出来事だった。
 20年前、橋口は34歳だった。フリーライターとしてそれなりの仕事はしていたが、何かが食い足りなかった。それで旅に出た。
 友人から借りたバイクでロスを後にして2日目。荒涼としたネバダの原野を南に下り始めた時、バックミラーの中で2つのヘッドランプが光った。ランプは見る間に近づいてきて、2台の大きな黒いバイクが橋口の脇に並んだ。
 黒づくめのライダーが橋口の方を見、左手を挙げて挨拶した。ヘルメットの後ろから伸びた銀色の髪が風に泳いでいる。その体つきから見て女性らしい。もう1台のバイクはタンデムで、リアシートには、やはり女性が乗っている。2人共、若くはなさそうだ。
 3台のバイクはしばらく併走してから、どちらからともなく道の脇に止まった。道行く旅人同士の、阿吽の呼吸である。乾いた原野の只中で、あたりには人の気配もない。エンジンを切ると、原野を渡る風の音だけが残った。
 「ハイ!調子はどう?」
 ヘルメットを脱いで頭を振ると、艶のある銀色の髪が風に広がった。ハリウッドの、初老の女優のようなライダーだった。齢は50歳を過ぎているだろう。
 「私はクーキー・メイベン。今日はジョイスの40歳の誕生日で、それを記念してツーリングしているの」
 クーキーが紹介すると、タンデムの2人もヘルメットを脱いで挨拶した。ライダーはドイツ系のアメリカ人、ドン・シューデル。リアシートの女性が、ジョンの奥さんの、今日で40歳になるジョイスだった。
 「どこから来たの?」
 「どこまで行くの?」
 道で擦れ違う旅人同士の会話なんてその程度のものだが、偶然の出会いと別れが一生の思い出になることもある。
 「ロードライダーズ アソシエーション カリフォルニア州レモングローブ地区代表」
 クーキーがくれた名刺には、そう書かれてあった。14歳でバイクに乗り、以来39年間走り続けているというから今年で53歳ということになる。
 旅の途中で知り合って結婚し、30年連れ添った旦那さんが、去年事故で死んだとクーキーは言った。やはり、バイクで旅する途中での事故だったらしい。
 「でもね、バイクで旅することはやめられないわ。彼だって、私がバイクから下りちゃったら悲しむと思うの。だって、あの人こそ、誰よりもバイクと旅を愛していたんだから」
 クーキーは、旦那さんが死んだ後も、週末には必ずツーリングに出かけるという。時には、娘や孫たちも一緒に走るらしい。
 滅多に車が通ることもない道端で、クーキーや橋口たちはジョイスのためにバースデイソングを歌った。誰もいない原野の只中で、4人は無邪気な子供のようだった。

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