タンザニアに入った村木(むらき)の前に草の海のようなサバンナが広がった。波打って地平線まで続く若草色の丘陵、コバルトブルーに抜けた空に何万という白い綿雲、清冽な空気に透明な風・・・。冷涼な大気に身が引き締まり、実に爽快だ。
動物だらけのンゴロンゴロ自然保護区を駆け抜け、霧に包まれた山から下りてゆくと、眼下にグレート・リフトバレーの雄大なパノラマが広がった。エチオピアからケニア、タンザニア、モザンビークにまでいたる、幅30〜60キロ、長さ4500キロのアフリカ大地溝帯。そこは、人類の直接の先祖とおぼしきホモ・エレクタス(原人類)たちが生きていた場所だった。
半砂漠のオルドバイ渓谷に下りてゆく。百万年以上前から、ここで直立二足歩行する原人類が石器を使っていたという。人類=ヒトの系統は直立二足歩行する霊長類として始まった。そんな生きものが地球上に登場したのが、500万年から450万年前。当時、地球の温度は下がり続けていて熱帯性の森林は赤道に向かって後退しており、その跡に広がった草原地帯に樹上生活から追われて進出してきた猿の一族が直立二足歩行を始めたという。
ヒト(ホモ・サピエンス)と同じ属、ホモ属の出現が250万年前で、ヒトの直接の祖先は20万年前から14万年前にアフリカに存在した小さな集団が起源らしいということも、最近になってやっと分かってきた。いずれにせよ、目眩がするほど壮大な生命のドラマではある。
砂漠や海の只中に1人いる時や星空を見上げた時に感じる、抗しがたい孤独感や解放感が村木は好きだった。考古学者になったのも、そんな気持ちが強く影響している。人はちっぽけな自分のスケールを改めて思い知らされ、その人生の短さとはかなさに思いを巡らせると同時に、広大な自然の懐に抱かれて余分な力が抜け、裸になって素の自分を取り戻しもする。時の流れを意識する時も同じで、途方もない歴史のほんの一瞬を生きているにすぎない虚しさに打ちのめされる一方で、しかし不思議と気が楽にもなる。一瞬に近い時間なら何が起きてもどうってことないという気にもなるし、だからこそ精一杯生きてやろうという気にもなる。恐らくは村木の父もそう生きたのだろうし、祖父、またその父もそう生きたのだろう。彼らが生きた時間の連なりの末端に自分が生きており、そんな自分も、いずれは時間の連なりの輪の一部になるのだ。
時に壮大な自然の中で自分のスケールを見つめ、悠久の時の流れの中に、今この瞬間を置いて考えたりすることも旅の中でなら気負わずにできる。それもまた、遠い土地への旅ならではの特権の1つだろう。結局は、今自分が何処にいて、何処に向かおうとしているかに全ては戻ってくるのだが・・・。