ブラジルとの国境に近いボリビアの、噎(む)せるような緑のただ中に沖縄があった。背後からアンデスの山並みが巨大な壁となって迫り、前面に奥アマゾンのジャングルとパンタナル大湿原を望むこの地域は、標高2千メートル以上の山岳都市が多いこの国では珍しい亜熱帯気候で、サンタクルスの町を中心に広大な農地や牧場が強い陽射しの下に点在している。
ボリビア共和国、サンタクルス県ワルネス群「オキナワ移住地」。土埃の舞う表通りにはボリビア人の商店と屋台が並び、錆の浮いたトラックや馬に引かれた荷車が行き交って、そこはまさしく貧しい国の田園風景なのだが、一歩「移住地」の中に足を踏み入れると世界は一変する。
立派な公民館と清潔な診療所、ボリビア人と日本人の教師が交替で教える学校、沖縄風天プラやチャンプルーを出してくれる食堂、石積みの塀に囲まれた赤い瓦屋根の白い家並み・・・。街路樹が日陰をつくる道を行き交う車たちも、よく整備されたピックアップトラックや磨かれたセダンが多い。
陽射しも風の甘さも沖縄によく似ている。移住者たちは、遥か彼方のこの地に故郷の風景を再現しようとしたのだろうか。最初の入植者が粘土質の土に鍬(くわ)を入れてから50年。沖縄県人のおおらかさと不屈のタフネスを養分に、亜熱帯の原野は「オキナワ」へと姿を変えていったのだった。
渡河敷(とかしき)は、初めてこの地に来た時に聞いた2人の老人の話を今も忘れない。
「オキナワ日ボ協会」会長の幸地(こうち)は62歳だった。沖縄の米軍基地で建設関係の仕事をしていたが、「50町歩の土地がタダで貰える」という話に心動かされて、50年前、第1次入植者としてこの地に渡ってきたと言った。
「沖縄では農業をやってたの。自分の土地もあったし、食うだけなら心配なかったんだけど、それだけじゃなんか面白くなくってね。人生は1回きりと思って、それでここに来たんです。広い土地も確かに欲しかったけど、でも、それだけじゃないな。やっぱ、冒険心みたいなものかな・・・」
幸地の先輩にあたる宮城(みやしろ)は71歳だった。戦前は「満蒙少年開拓団」に参加して満州に渡り、戦後は、やはり自分の土地がありながら処分し、妻と子供2人、妹2人を連れてボリビアへ移住したという兵(つわもの)。
「移民というと暗い感じがするでしょ。開拓者の暮らしも苛酷さばかりが言われるしね。でもね、開拓者自身は、その時の状態ではなく、いつも、その先の、将来の設計図を頭に描いているからね。だから、苦労を苦労とも感じないの。夢があればね、外から思われるほど、暗くも辛くもないんだよ」
とはいっても、もちろん現実は苛酷で悲惨だった。